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大須賀淳
2025.11.24 19:53その他ニュース

高鳥修一は安倍晋三に「トドメをさす」のか?

極めて淡々とした文体で記した方が、現在の自分の心情を正確に記せると思うので、以下その形態で記述します。

 

 

まず一般論。どのような殺人事件においても、司法の場においては「情状」(事件という結果に至った事情)に関する論述が行われる。

 

高鳥のポストをストレートに解釈するなら、安倍晋三元首相の殺害事件に関しては、現役の国会議員でなおかつ元首相である人物が、選挙(応援)活動中に殺害されたという極めて公的に重大な「意味」を持つ出来事に対して、犯人の持つ背景よりも実行時の実況に重きを置くべきという主張に読み取れる。

 

しかし、それ(実行時の実況)を趣旨とするならば、上記ポストには(他ポストによる補足も含め)事件発生から約3年半の間に行われた、警察・検察の検分、裁判の審理において「実況のどの部分が、どの程度検証されていないのか」という指摘が一切なく、極めて曖昧である。

 

それを踏まえると、高鳥の本意は「この事件から〝意味〟を抹消したい」という意図なのではないか?という疑念が浮かんでしまう。

 

それを起点に考察してみる。

 

まず、「安倍晋三という人物が殺害された事には一切の〝意味〟が無かった」と言い切れるのはどんなケースか?それは、実行犯である山上徹也が精神病などで心神喪失・耗弱の状態にあった(有り体に言えば〝狂人の犯行であった〟)しか無いだろう。

 

もし仮に裁判において裁判でそれが認められれば、刑法第39条の規定によって、山上被告は罪を問われない、または減刑されるという事になる。もし、高鳥がそれを望んでいるのならば、その主張は一応の「筋」が通ったものとなる。

 

一方、もし高鳥の主張が、「被告の家庭環境がどうだったのか?」つまり、山上被告の母親が統一協会の信者で、その行いで家庭崩壊した事が事件の要因となったという事を一切排除すべきというものなら、話が変わってくる。

 

高鳥修一の持論が「あらゆる殺人事件は、被・加害者の誰彼を問わず、殺害人数とその方法のみについて裁かれるべきものだ」というものならともかく、ポストにおける主張は明らかに「安倍晋三元首相の殺害事件」に限定したもの。

 

つまり高鳥は、個別事案としての本件から背景、つまり「意味」を排除すべきというものと主張している事になる。

 

さて、安倍元首相、および高鳥本人も過去に拝受していた「議員」という立場は、年齢以外の生物学的及び物理的立場などに囚われず、日本国籍を有し、選挙制度に基づいた決定においてもたらされる、極めて「意味の世界」のみに立脚した概念である(たとえ当該人物のDNAを全解析しても、そこに「政治家」という事をダイレクトに示す情報は含まれていない)。

 

極めて公的である議員という立場は、たとえ暗殺という事態を被っても、そこにさらなる「意味」が生まれてしまう程の重さを含んでいる。もし犯人の主張が到底理解されない理不尽なものであれば、政治家本人の信念はむしろ裏打ちされて支持を強めるであろうし、もし犯人の主張に説得力があれば、政治家本人の主張にあった瑕疵や歪みが浮き彫りとなり、社会に対する重大な問題提起となる。

 

どういった形にせよ、政治家という存在から「意味」を抹消するのは、その人物の(少なくとも他者からみた)アイデンティティーを奪う事に他ならない。それは、物理的生命を奪う以上の暴力であるとさえ私は考える。

 

高鳥修一は、裁判に対する曖昧模糊な言説で、安倍晋三から「政治家というアイデンティティーを奪いたい」のだろうか?それは何のため?

 

私は、個々の意見としては安倍元首相の主張と合わないものはいくつもあれど、日本という国の歩みの中に大きな影響を与えた人物として、歴史の一部としてその功罪含めて存在をしっかりと評価したいと考える(特に、高市政権の現状を見ると、安倍政権の「まともだった部分」が色々と浮かび上がってくる)。

 

再度、高鳥修一に問う。そこまで「安倍晋三から〝意味〟を奪いたい」という言説を行うのは何故?

 

私には、高鳥の言説は、安倍元首相から「命以上のものを奪い、トドメをさそうとする」残酷なものにしか見えない。

大須賀淳

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